2021年9月23日木曜日

宗教史特殊講義2 第2回

 
仏教伝来と聖徳太子

―古代日本の成立と仏教―

 

仏教伝来と聖徳太子

 前回の講義で確認したように、6世紀の日本に伝来した仏教は、インドで広がった大乗仏教以降の新しい仏教思想が中国語に本格的に翻訳され、それらが広く中国文化に組み込まれた思想や文化でした。

 このため、世界の宗教文化圏を分類するときには、しばしば日本を含む「中国宗教/大乗仏教文化圏」と、南アジアから東南アジアに広がる「ヒンドゥー教/上座仏教文化圏」―ともに「仏教」の影響を強く受けていながら―まったく異質の宗教文化圏と見なされます。

 かつては「小乗仏教」と呼ばれた、南アジアや東南アジアの仏教の特色は「出家主義」であり、世俗の生活を離れた出家修行者と一般の生活をしながら信仰をもつ在家信者が明確に区別されています。その一方で、大乗仏教では「在家」の人々の役割が重視され、とくに日本では出家/在家の区別が曖昧になる特異な仏教思想が展開しました。

 古代から中世の日本の為政者は、多くの場合に政治的な立場と聖職者(僧侶)の立場を兼務しますし、親鸞の「浄土真宗」のように、出家(僧)/在家(俗)の区別を完全に無効化する仏教思想も登場します。




 こうした日本の仏教思想の展開に、大きな影響を及ぼした人物が聖徳太子です。聖徳太子は、優れた才能に恵まれた政治家として評価される一方で、しばしば「日本仏教の開祖」としても崇められます。なぜなら、聖徳太子は日本への仏教伝来について語る場合に、欠かすことのできない人物であるからです。「本朝の釈迦」とも称された聖徳太子は、出家した僧侶ではなく、在家の政治家であったことも重要なポイントの一つだと言えるでしょう。




 仏教関係の記事を中心に、平安時代に日本の歴史をまとめた『扶桑略記』には、渡来した司馬達等のような人たちが、522年頃すでに仏教を日本に伝えていたと記されています(仏教私伝)。この時代には、すでに中国や朝鮮半島には本格的に仏教が伝えられているので、このような仏教の「私伝」は、むしろもっと頻繁にあったと考えるべきでしょう。

 こうした非公式の仏教伝来に対して、欽明天皇の治世に朝鮮半島の百済・聖明王から使者が使わされ、仏像や仏典とともに仏法流布の功徳を賞賛した上表文が献上されたことを「仏教公伝」とするのが一般的です。

 この「仏教公伝」の時期には、古くから538年552年の二説があって、どちらも決め手に欠けています。とはいえ、どちらにしても6世紀の半ばには、日本に仏教の経典や仏像・仏具などが本格的に請来されることになりました。このときすでに、釈尊がインドで仏陀になってから1,000年ほどの時間が過ぎています。


崇仏派と排仏派

 日本に伝来した仏教は、すでに如来・菩薩・明王などの仏像の礼拝多彩な儀式・儀礼を含む宗教文化体系を形成していました。これらの異質な宗教文化は、「蕃神(あだしくにのかみ)」として、日本の土着の宗教文化とは相容れないと考える人々も現れます。




 物部氏中臣氏など、古代の祭祀と関わりの深い氏族を中心に外来の仏教文化を排斥する勢力と蘇我氏のような渡来人系の人々を中心に、新しい宗教文化を導入することに積極的な勢力が対立し、古代の日本を二分する大きな戦が起こります。「丁未(ていび)の乱(587年)」と呼ばれるこの内乱において、重要な役割を果たしたのが厩戸皇子(うまやどのみこ)/聖徳太子です。

 蘇我氏と血縁関係のあった聖徳太子は、蘇我馬子の軍とともに物部守屋を攻めますが、物部氏は古代の軍事を司る氏族であり、地の利百戦錬磨の戦術を生かして果敢に戦います。このため、馬子と太子の軍は3度撃退されて、かなり厳しい状況に追い込まれました。

「日本書紀」には、このとき聖徳太子がその場で四天王の像をつくり、戦勝を祈願したと伝えられています。




 聖徳太子は、近くに生えていた白膠の木を切り、その場で仏法の守護神であり世界の四方を守護する「四天王」の像を彫りました。白膠木(ヌルデ)は、山野に普通に生えている一般的な木です。そして「今し若し我をして敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為(みため)に、寺塔を起立(た)てむ」と誓願し、蘇我馬子も一緒に誓いをたてて、太子が弓を射ると見事に物部守屋(大連)を射堕します。

 大将を失った軍は総崩れになり、戦いは崇仏派の勝利におわりました。そして、寺院建立の誓い通りに、聖徳太子は四天王寺をはじめとし、多くの寺院を建立して日本に仏教を広める立役者になりました。

 のちに聖徳太子の子孫(山背大兄王)が、蘇我入鹿に滅ぼされることを考えると気持ちは複雑ですが、少なくとも太子は、蘇我氏と協力して新しい文明である仏教を古代の日本に積極的に受容して、古代の王政を改革し、文化を革新し、新しい技術や社会制度を広く導入していきます。

 とくに、蘇我馬子が擁立した女帝である推古天皇を補佐する摂政になってからは、国の実質的な指導者として、古代の日本の礎を築くさまざまな政策を打ち出しました。冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、史書の編纂などの事業はよく知られています。また、日本に仏教を広めた立役者として、しばしば「本朝の釈迦」と崇められた聖徳太子に関しては、さまざまな伝記が流布するとともに、多彩な「太子信仰」が各地に生まれます。聖徳太子=救世観音と見なす信仰は、かなり早い時期から定着し、最澄や空海、浄土系の信仰などとも関連づけられながら、日本仏教の各宗派においても「太子信仰」が大きな役割を果たしました。




 また、丁未の乱の際に聖徳太子は、一瞬で四天王の像を彫りました。このため、聖徳太子はさまざまな文化・芸術・芸能と関連して語り継がれます。さらには、誓願を守って四天王寺を建立したことなどから、大工の祖神としても各地で祀られました。さまざまな伝記のなかには、まず物部守屋が自らの氏神に祈願した矢で聖徳太子を射倒しますが、頑丈な甲冑に守られた太子は、今度は四天王に祈願して矢を放ち、守屋を射倒すというバージョンもあります。

 古代の崇仏派と排仏派の争いは、新しい文明を受容してまったく新しい社会や文化を創造していこうとする革新派と、古い文化や制度を維持していこうとする守旧派の争いでもあったのではないでしょうか。




 実際、聖徳太子が建立して現存する法隆寺を見れば、それまでの日本に一般的であった高床式板ぶき屋根の木造建築とは、全く新しい建築様式が導入されたことがよく分かります。仏教とともに導入された新しい文明は、人々の生活を根底から覆すような新しい技術や文化をともなうものでした。

 また、古代の合議制の豪族政治は、仏教とともに導入された中央集権の律令制度に転換されていきます。これらの新しい社会システムもまた、「仏教」とともに/として伝来した新しい文明の一部でした。




 つまり、古代の日本に伝来した仏教は、現在の「宗教」という言葉で定義されるような存在ではなく、むしろ新しい文明ともいうべき、新しい思想新しい技術新しい文化新しい社会システムを総合する、新しい知の体系だったのです。聖徳太子の多彩な伝記太子信仰の展開をみると、そのことがよく分かります。

 次回の講義で少し内容を検討しますが、中国経由で請来された仏典は、宗教書というよりは天文学や医学などの科学的知見や世界の地理的・政治的情報倫理や哲学などの知識のリソースとして、当時の日本の知識人たちに利用されて行くのです。

 この新しい文明とともに、古代の日本は中央集権の新しい政治・社会体制を築いていくことになります。しかし、しばしば「律令的国家仏教の時代」とされるこの時期の仏教は、聖徳太子の理想とする仏法興隆とは、少し方向性を違えていくことになりました。

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